スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

不幸フェチというどうしようもなさ


自分のことを「不幸フェチ」と言い張ってるときがある。

不満になりたがり。不幸でありたがり。わたしの人生はドラマはわたしのもので、わたしが主役だからわたしの見てきた記憶わたしの感じた痛みやつらさわたしわたしわたし

もはや不幸であることがアイデンティティになってしまった、不幸でいないと不安になるというどーしょうもない構図、不幸フェチ。

そもそも不幸であることがなぜそんな大切なのかというと幸せがわからないからなのである。

自分にとっての幸せって感覚がよくわからない。というか幸せを知らない。幸せであったことがない。だから世間一般のいわゆる幸せというものを見せしめられると、それと比べてわたしはこんなに不幸なんだ、って思うことでしか自分のあり方を見つけられない。

わたしの人生ではだれもわたしにかわいそうって、がんばったのにって、つらかったねって、いってくれなかった。だからわたしが抱えてあげるしかない。不幸で不幸を忘れるためにもっともっとヒタヒタに浸かってたい。だから不幸フェチ。不幸なわたしを求めてる。

幸せがわからなかったし幸せになれなかったかわいそうなわたしだから不幸で麻痺させていることではじめてちょっと、しあわせ、から固執することが緩和される気がする。

思うに私は幸せに対して貪欲であった。貪欲だからすべての責任も自分で追うつもりでいた。その幸せへの得体の知れない理想の高さと意識の強さがねじくさって不幸フェチへと導かれた。

不幸フェチなんかでいるかぎり幸せにはなれないと思う。不幸フェチなんかでいること自体が不幸、というよりはわたしの人生だったりクソな生き様の集大成であるかのように思う。

しかしこれは病はない。だから不幸病とは呼ばない。フェチなのだ。性癖、なおるもんじゃない快感と後ろめたさと変態にどうしようもなくグチャグチャにまざりきったクセのような

かわいそぶりたいから不幸でいるのが最高にキモチイイ、ならずっと不幸でいればいい。だけど簡単に救われない人間だから、こんな脳構造になってしまったこと自体は人生の傷で痕跡で障害だと思う。なおんないからこうやってフェチなんて言葉でキモチイイ風にしてごまかし付き合い続けてくしかないだけで、結局のところ健全ないわゆる幸せの概念に振り回され続けているところがまたしても救いようがない。

幸せを感じる器官が全く育たなかったから、かわいそがってもらってかまってもらえてって方面でしか気持ちが安定しない。幸せがわからないことが何もかもの不幸だ。

以前よりは私は落ち着いていて、前よりは安定した仕事をしていて、美味しいご飯を食べたりする休日に幸福を感じる。それでなんとなく幸せを得られたと思っても、今度は創作ができなくなったこととか執着のなくなったこと、ギラギラしたパワーのなくなったことに悩みやモヤモヤを感じているばかりで、今まで不幸で精神のバランスを保っていた人間が今更人並みに幸せになりかけたところで簡単に未熟な幸せ神経が育つとも思えない。自ら不幸に身を投げ出しすべてを破壊したくもなる。この歪んだすべてが不幸フェチスパイラルがわたしの一生かかえていく人生の負の痕跡。

脳内が多動症である。貧乏ゆすりをするのは適度な振動が落ち着きをもたらすというがそれと同じだ。いつも脳を揺さぶって揺さぶってバランスをとっていたからたまに静かだとむしろ落ち着かない。落ち着いていることが落ち着かない。


アーティズムマーケットにそういえば行きました。見るなちゃんの服が買えて幸せです。次のコミティアに申し込みました。不幸のエネルギーで絵を描くのができなくなったなら、絵を描きたくてしょうがないくらいしあわせになれたらいいのに。不幸フェチで居続ける方がしあわせになるよりも簡単な気がしてくるから世の中はくそ。

スポンサーサイト

コメントの投稿

Secret

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。