シアワセキチガイ



幸せを求めるあまり、私はシアワセキチガイになってしまった。

シアワセキチガイ。

わたしは常に、幸せという概念にとらわれ振り回されてきた。

それは幸せがよくわからなかったからなのだと思う。小さい頃にはみんなが持ってたように見えたものをわたしはもっていなかったり、いつから染み付いたのかもわからないいわゆるところの「幸せ」像みたいなものをわけもわからず追いかけていた。

そう、知らなくて、持っていなくて、だからありもしないかもしれないはずの幸せ像というものにより執着し、しかしやはり知らないものだからそのギャップに結局苦しんでいたりした。

わたしはわたしの幸せに対してとことん貪欲であった。わたしの幸せに対して犠牲や責任をはかれること、またわたしの幸せに対する執着的な価値観を理解できるのはただ自分のみと思ったいたからである。

お金がない、才能がない、環境がない、わたしにはなんにもない。ただなんにもないわたしに、唯一幸せあったとしよう。持っていたとしよう。それははじめて、わたしがどんな人間だったとしても、他のなんでも持ってる人間に勝てることわたしが幸せだと信じてることが唯一の可能性だと思っていた。

力がなくても物資がなくても、精神が充足しており自分は幸せだと自信をもって言えるなら。

そう考えられるようになったときわたしはほんとうに価値観がかわった。
たとえば晩御飯をちょっと凝って作って見ておいしかったとき。休日にちょっとお酒を飲んだり出かけたりしたとき。そういう幸せがみえるようになってきた。人間これでいいんだなって思ってた。

わたしが創作にいろいろ燃やしてきた原動力もまさにいわゆるところの幸せへの復讐だったり妬みだったりした。でもこういう何気ない類の幸せを感じられるようになったらそんなギスギスギラギラしていなくても立っていられて居心地が良かった。

だけれどもしかし、やはりわたしは生まれ持っての幸せセンサーを搭載した人間でなく、結局何気ない幸せだと当たり前のささやかなことだと思っていた幸せだってわたしは無理して感覚を研ぎ澄ませて洗脳することでやっとその幸せ電波をキャッチできただけの人間である。

そう、ささやかな幸せ、それなら許されて欲しいばっかりに無理やりにささやかな幸せを作り出そうとしていた自分がもう不自然できちがいじみていた。

結局、ささやかな幸せ、というものだって幻想の一般世間のいわゆる価値観に引っ張られて思い込んでいたものでそんなの全然わたしなりの幸せではわたしが感ずべき幸せではなかった。

当たり前の幸せなんてものに当たり前のはずのものにこんなに固執して振り回される時点で幸せではなかった。ただのシアワセキチガイの無様なすがたである。

結局、幸せや楽しいのなかにはいろいろなつらいものや苦しいものや息苦しさがどこかつきまとう。わたしは幸せがほしいのでなくほんとうは、そういったたぐいのややこしさとそれを考えずにいられない自分の脳神経のこんがらがりから解放されたいだけなのである。無なのではない。無になりたいのでなく格差や落差がひたすら怖いのだ。落っこちていくことがこわい。ただ一点にとどまりたい。落っこちたとき痛くなるだけなのなら天になんてのぼりたくないのだ。生きづらさとはそういうところに根付いている。
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