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い、切る、イキル、


※自傷行為について書きます。


わたしはいつだって、生きることや、死ぬことについて、考えている。

生きること、しぬこと、それらに関わるいろんなことについてのさまざまな疑問にぶちあたるたび、たくさん考えたり、ひとの話を求めては、自分なりのこたえを出してきた。

なぜ生きるのか?なぜ死にたいと思うのか?なぜ、それなのに死ねないのか?

今の私にとって、それらにたいするこたえはすべて、創作のため、と、いまは言い切れる。

わたしはこたえを見つけた。

そもそも、なぜ、こたえなんか、必要なんだろうか。


だってそりゃ、生きることなんかくだらないし、でも死ぬのは怖いし、いいことなんかろくにないけど、嫌なことは山ほどあってさ、あったりまえじゃん。なにかにすがってないと生きられないなんてさ。

生きるために死なないために、死ねない自分すら納得させるために。すがるもの。わずらわしい思考を停止させてくれるもの。わたしに意味を与えてくれるもの。死にたい気持ちのその衝動それすら受け止めてくれるもの。

それは、人によって、たとえば、恋愛だったり、性だったり、仕事だったり、スポーツだったり、お酒やタバコだったり、食べることだったり食べないことだったり、ファッションや美容だったり、宗教だったり、ギャンブルだったり、買い物だったり、薬だったり、

たまたま、手首を切ること、だったりする。


要はだれかしら何かしらそういうものを持っているので、生きること、それそのものが、自傷行為だと言ってしまっていいとおもっている。

どう考えたって、つらくて苦しくて、だからなにかでごまかして、いっとき満たされたような気になって、また自ら苦しみに行くなんてさ。

そうしないと生きてけないような世界なんてね。それ自体おっっかしいんだけど、でもそう簡単に世界は変わってくれないし、じゃあ自分を変えたいんだけど、死にたいもんは死にたいしつらいもんはつらいし。変えられないから。ごまかすしかないんだよね。


じゃあなぜ、「リストカット」、手首を刃物で傷つけること、にそれが向かうのか。

わたしが初めて、切ったのは中学生のとき、思春期特有の悩みの最中、そういえばこういう気持ちのときにするらしいリストカットというものはなぜ切るのだろう、そんなにスっとするのかなと試してみたのがはじまりである。

よく、「リスカは伝染する」という文言をみかける。私のもそう分類されるのだろう。

けっこう、自傷そのものからリストカットについてとか、たくさん考えて来て、メンタルサイトでいろんな疑問やエピソードをアンケートして集めたりしてた。

具体的にデータとして統計したわけではないけれど、きっかけとして、手首はとっさに目に付く、すぐ切れる、血管が通ってるし、とかって理由もあれば、リストカット、に対する、ある種の好奇心から、という理由ももちろんあり。

私なんかは、自分で手首に傷、だとすぐじぶんでやったとばれるぞと思い、二の腕とかやってごまかしたりもしてた。

かといって、リストカット、という行為や言葉や画像が広まること、その知識をもつ人が増えることが、人に伝染するから、という理由で自重されるべきとも思わないけど。
生きることそのものが自傷だしそのかたちは様々で、切るやつは切るし、別のやり方があるやつはそうするだけの話だ。

人間みな自傷行為に依存しているのだから。手首どうこういってもしょうがないきっと。


ところが、手首を切るということ、死ねそうで死ねない、鮮血のあふれるこの行為は、こういっちゃあアレだけど、とってもとってもインパクトがあり、また都合がよい。

そのため、創作のなかであつかわれ、次第にいわゆるメンヘラ、不安定や思春期、ちょっとしちゃった病み、それらの象徴、記号として定着していったのである。

制服や恋愛、手軽に毒を加えたいかわいさ、それらとリストカットは非常に相性が良かった、さいきん言われてしまってる、絵柄の流行り、たどりつくほどにえがかれていった。


生きること、そのものが自傷。そしてその、自傷行為の代表で象徴で記号で、つまり神の位置に君臨するリストカット少女。

制服リストカット少女に天使や十字架がまたよく共にえがかれ、相性がよいのもそのためであろう。

だってね、手首を切ることは、
わたしたちの生きて行きづらい世界。
それを断ち切る、
革命する、
わたしたちのすがるもの、わたしたちを救うもの。


かみさま。

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ツナガル世界、性。


「性的なるもの」。


それらにわたしは、いつだってふりまわされてきた。

そもそも、わたしの誕生そのものも、性であり、性があったからこそのことで。

また生まれたそのときから、問答無用で性を抱えさせられていること。

前回の記事でも書いた。

うまれたときからおんなのこ。
ううん、うまれたときからまんこがあるだけ。


ヒステリー、という言葉は、子宮、を意味する言葉から由来している。

そうだからうまれつき、子宮でまんこでおんなだから。狂気を。パニックを、からだに秘めているというこの、、、、


とかそんなことをつねに思いながら電車にのっていたりする。

見渡せば様々ではあれど、しょせんいろんな形の男、女、おとこ、おんながひしめきあっているだけである。

性の世界とはわたしにとって、日常から隔絶された、特殊な、それこそにんげんのなにもかもがはだかの無防備の、異空間であるとおもっていた。

だからこそ、高速道路に現れるラブホテルの看板にワクワクした。駅で甘ったるくいちゃつくカップルに吐き気がした。アダルトショップに入るのもいちいち恥ずかしがってみたりした。知り合いの性の話はどんなものであってもショッキングであった。


性は表立ってだすものでもないし、でもどこかに確実に営まれて。その秘密裏のパワーとひそやかさに惹かれていた。かくさなくてはいけないはずのもの。なのにそこまでしてやったりやられたりしている、得体のしれない引力。面白いとおもった。性に関しての絵やツイートが増えだしたのはそんなときだった。


わたしが、性を異質な、非日常だととらえていたのは、ある意味で性をなによりかけがえなく、とくべつに、たいせつにおもっていたからだ。
それだから、しあわせ、をそこに重ねたり、傷ついたり、あと、日常にとつぜんとして性が現れるとそれは、わたしにとって交通事故のような。あまりに衝撃をもたらすのだ。

ひそやかで、スリルで、ショッキング。とっても興奮で、とってもくるしかった。

だって、そんなにそんなに。わたしの脳に体に心をダイレクトに揺さぶるほど。だいじなとくべつなことだから。

麻薬に手をだすような、いけない性衝動、と、内側でくすぶる、だいじでピュアな性願望。

そうわたしは、歪みすぎるほどにピュアだった。純粋だから、どこまでも性は重たくなった。

だがしかしだ。性なんて、たいしたことじゃあないのだほんとうは。

どこにだって性の気配はあって、みんな素知らぬ顔で歩いてる。きたないのも、純粋なのも、わたしだけだと思ってくるしんでた。ううん、性だから人間で、人間だから性だった。みんな。みんな。

そんなにだいじにするようなもんじゃない、そういうもんだ、ってみんな本能的に区別して、当たり前の性を。あたりまえにまっとうし、消費している。

たかが性。性の世界。なんにもとくべつなんかじゃない。ピュアな夢物語でも、トリップ空間でもなくて。ほんとうはピンクの霧よりも、灰色のゴミ捨て場を見て目をそらすときの感覚がにあうような、なぁんでもない。ただのただのただの、しょせんの、、、、、、


じゃあさ。どうしろというのだ。

ぬぐっても、なにもかもふさいでも、どこかしこに性のにおいがあって消えない。生まれたときからしばられているのに。解放されない。

どうせ消えない。なら、とくべつに大事にして、たのしんだり利用したりえがいたりすればいいのだと思ってた。だから考察したの思考したの、不快と思われようと言ってえがいたの。

だけどなんでもない性をなんでもなくあつかっている人々が、なんの考えもなしになんでもなく私の思考をからだをこころをむさぼって、そのうえ、そうしているほうが結果、ほんとうのかけがえのないたいせつな性を、てにいれていく。


このせかいはいつだってそうだ。性のことだけじゃない。すべてをだいじになんてむりで。なんとなくをうまくこなせるひとが最後にはだいじにされる。


表現はわたしを、わたしの性を救うと思ってた。ううん、どうせたいしたことでもないので、そんなものをえがいたところでなにも伝わりません。

性の世界は日常とあたりまえにつながっている。わたしは日常を生きられなかった。だから。きっと、もうどこにも、

「おんなのこ」ってなんだ。

「ピンク色をもっとくれ。
 わたしが少女であるために」

大森靖子がさけんだ。


おんなのこってなんだ。

わたしのこころのなかに常にある思い。

少女。女の子。
つねに色々な媒体で表現され、晒され、そして消費されてきた。

わたしもたくさん、えがいてきた。たくさんみてきた。
そもそも、わたしにだって、あったはずなんだ。

おんなのこ。オンナノコ。


わたしが生まれたとき。間違いなく、オンナノコですよと言われただろう。
わたしがちいさいとき。いつも言われた、オンナノコなんだから。
わたしの思春期。つねに笑われた。女のくせに。と。

そして突如。投げかけられた。
オンナノコとして、ちゃんと見てるよ。

どろついた、おぞましい、意味合いを含んだ、おんなのこ。



わたしは、小学生くらいのころから、まわりのひとより太っています。

ほんとうにほんとうに、ちいさかったころは、ふとってもいなくて、きっとちゃんとオンナノコしてたはずです。

ピンクのひらひらお人形みたいなワンピース。セーラームーンみたいなツインテールをして、アルバムにうつっているすがたもありました。

だけど、太ってから。あれからきっとわたしの、オンナノコ、に対する呪縛が始まったのです。


怖かった。ピンク色やスカート。きっと嫌いじゃなかった。でも、笑われるのが怖かった。

今まで、オンナノコなんだから、と言われていたわたしが、女のくせに。と言われるように変わったときです。

髪の毛も短かった。きたないかっこうでゲームばかりしてた。男の子と遊んで、おんなのこらしいことは拒絶した。

おしゃれして学校にきて、メイクや髪型のはなしに興じているおんなのこたちをにらみつけた。

中学生にあがって、制服のスカートをはくのが嫌で嫌でしかたがなかった。泣いた。きっと笑われると思った。でも実際笑われたのは、そんなこときにしてきにしてばかりいる姿のほうだったのに。

中学校でも相変わらずおんなのこは苦手だった。でも男の子は前みたいにあそんでくれない。


高校にあがって、ロリータの服を、世界を知った。ああ似合わなくても好きなら着ればいいんだ、笑われても自分のために着ている服ならそれでいいんだと思えるようになった。

それからメイクを覚えたり、ピンクや動物のかわいいものたちを集めるようになった。やっとおんなのこになれた気分でうれしかった。

そんな折、中学生のころ同級生の男子に再開した。おんなのこらしくなったねっていわれた。そうしてさらに、

「まあ、ずっとあのころから、みんなが何といっても、オンナノコとして、俺はみてたけどね」



わたしがくるしみ、追い求めてきた、オンナノコ。
そこに、性が。介入してきたときである。

あのときはまだわからなかった。ずっと誰も、わたしをオンナノコだと言ってくれなかった。わたしはこんなに、オンナノコなのに。認めてもらえた?こんなんでも、オンナノコなの?オンナノコだとみてくれるなら、、、、、、


もうそこからはくずれて、ゆがんでくばっかり。

そう、所詮ね、わたしが求めて、夢見て、焦がれて、やっとつかんだ気でいたものなんてね。

このからだにうまれつきそなわった。まんこでしか。なかったのだ。


目をそらしていたんだ。はじめて自分の性器をまじまじと見たとき思わず驚いたあの感じ。お風呂に入るときみた大人の陰毛。初潮がきたときのわけがわからなさ。にやつくまわりの大人たち。

いいえ、いつまでも少女でいたかったなどわがままはさすがに言わない。ただ、信じたかった。わたしがなりたくてなれなくて、ほしがりつづけた、おんなのこ。それが、たかがまんことおなじことにされたくなかった。そんなものとはちがうと思いたかった。


わたしはいまだって、おんなのこがわからない。

だからあつめている、えがいている。

ピンクやキラキラ、ふりふりリボン、童話や変身少女、動物さんやファンシーキャラクター。

ばかみたい。アホみたい。だけどわたしは、おんなのこじゃないから。なれなかったから。こんな。単純で安直で、小学生すら、だっさ~いって笑いそうな、幼稚な少女趣味しか知らない。わからない。


そんなもので囲ったって、性器を、まんこをもって生まれてしまった時点で。わたしはわたしの価値より、おんなのこのすがたより、ただまんこをもってるその事実を何より優先して判断される。


だいすきなピンク色。ほんとうは、性器のように、黒ずんでしまっているのかもしれない。

手垢とか欲望とか。わたしの夢の燃えかすとか。たくさんのグチャドロで。


(生々しさを伝えたかったのであえて伏字などせず表記しました。)


創作と孤独、愛情について

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いつもtwitterにたれながして終わりだったさまざまな思考を、やはりきちんと書き残しておきたいとおもったため、ブログに書いていくことにします。
基本てきには、ツイートのまとめ直しなので、普段みていただいてる方には、重複した内容になるかとおもいますが。

そもそも、かしこまって文章をかくことが苦手なので、続くかもわかりませんが。

以下長文。




わたしのこころは、いつだって孤独である。

そして、創作に孤独とは、不可欠なものであるとも思っている。

どんなにいわゆる鬱作品だとか、問題提起だとか、俗にいわれているものでも、おそらく孤独を知らないであろうひとたちの言葉は、大変薄っぺらに感じるものだ。
そもそも、他人から与えられる言葉や創作で満足できる程度にしあわせな脳内をしていたら。わざわざ苦しんでまでも己から生み出す必要などはないだろうし。


では孤独とは何であるのか。

わたしはそれを、心の奥底によこたわった広大な、砂漠、であるとよく形容してきた。

砂漠。

比喩ではあるけれど、乾ききった、愛情の残りカス、堆積物であるという点ではなかなかじぶんにとって的確でしっくりきている表現だ。

感情とは、こころの表面の部分、単なる上澄みでしかない。それはときに激化しぐらぐらと煮え立つ。ときに甘美で恍惚とさせる味になる。おいしい部分だ。あったかい上澄みのスープの部分。

一見それは愛情を求めそして満たされていく、生きた部分にみえる。
しかし、わたしの心には砂漠があるので、いっくら表面が荒波をたてていても、奥底では常に冷静で、
冷め切って。論理的に計算して動いて。そうして愛情を手に入れたつもりが、乾ききった砂漠が瞬間それを吸収してしまい、けっして潤わず、ただ残りカスのゴミだけが堆積しまた砂漠を広げていくのを、つねにひざをかかえてみているのだ。


では何故その砂漠が、創作において重要な意味をもつというのか。

砂漠が心に生まれたこと自体がそもそも、愛情と裏切りの連続の末のことであるはずだ。だってそれは心の堆積物、沈殿物だもんね。

その繰り返しのなかで、心に砂漠をつくってしまったこと。それはある意味で自衛でもあるのだ。

そう、冷めきることでしか自分を守れないという、それは繊細さ。

感情に振り回されてしまうから、砂漠という、「底」をつくった。
裏切りに対して、傷つかないためにつねにどこか冷静になっていないとしんでしまうのだ。

それをしていないと保つことのできない、繊細な神経。
愛情にたいして敏感な脳の周波数。

こころに響く創作をつくるひとは、絶対にそれらを抱えている。

そもそも、愛情を欲しているにんげんは、知らずのうちに人に見てもらう、かまってもらうふるまいや言動をすることに長けている。

色気があるとか、オーラ、繊細、ひきつける、そういった言葉で表されるひとびとは必ず砂漠を抱えているのだ。


そして。砂漠を抱える元凶である繊細さ。またその砂漠に気づきコントロールしていく覚醒した、孤独。


そう。孤独なのは砂漠があるのは人類みな同じかもしれない。が、その孤独を覚醒させ気がつけるという力。そのための作業が、創作というものなのかもしれない。


だから。繊細さ。敏感さ、不要な脳のチューニング、それゆえに生まれた砂漠、傷。
これを背負わされてしまったのなら、もう、利用してなにか生み出してやるしか。救われる道はないのだ。

それゆえに創作は愛情で。孤独で。またそれらとそれに振り回される自分自身への孤独と愛情の提供で、その上、それら含めた世界すべてへの、復讐、でもありうるのである。


しかし冷静なはずの砂漠のわたしがあきれることにも。

つもりつもった心の、「それ」ごと。
おいしくないざりざりの沈殿した砂ごと。

すくいとって、飲み干してくれる人を。
あるわけないとわかりながらも、こうして砂漠に埋もれながら、ただ待ちそびれているので、

ますます創作から。孤独から。逃れられなくなっていくのである。
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